全ては巡ってうまくいく【トーラスクリエイション】

スピリチュアルに軽やかにこの世を生きる

「仕事」から「志事」に

ちょっとしたキッカケから「はたらく」ということについて考えていました。

わたしには、ずっとどこかネガティブなイメージがあって、それは義務や縛り、もっといえば強迫観念みたいなもので「働かないと生きていけない」とか「働かない自分は人として最低」みたいに長いこと思っていました。同じようにきたちゃん(夫)にも歪んだ「働くということについて」の観念がありまして。彼をずっと苦しめていた呪縛は「稼げない自分は誰にも必要とされない」というものでした。だから手取り金額が下がった時、仕事が暇になった時、めちゃくちゃ機嫌が悪くなってね。休日になるたび家の中で一人ピリピリしてわたしや子供たちに異様な圧をかけてくる彼に、ほんとうんざりしたものです。だけどずっとそのままでは子供たちが可哀そう。お休みでお父さんと遊びたいのにとても近づける雰囲気じゃない。意を決してわたしは彼の古傷を隠した絆創膏を強引に無理やり剥がしにかかったんです。

後に、これこそわたしの役割だと気づくキッカケにもなった出来事でもあります。今でこそセラピストとして一番難しく重要なお役目だと受け容れていますが、ブロック解除は時に、生易しいことをしていられない。古傷を突かれる方はもちろん、突く方も、どちらも痛みを伴う。決して興味本位でも面白がっているわけでもないことをわかってもらえたら救われるんですが、残念ながらなかなか理解はされませんね。でもそれがわたしの役割ならやるしかない。いつだって真剣勝負です。

詳細は守秘義務により割愛しますが(知りたい方は個別に)まぁいろんなことを越えて、わたし自身もきたちゃん(夫)も、今は「はたらくこと」を日々とても楽しんでいます。忙しいとか愚痴は出たとしても「辞めたい」とは思わない。わたしたちにとって「はたらくこと」は義務でも縛りでも強迫でもない。自分自身の在り方を世に表現しているに過ぎないのです。

 

わたしが最も好きじゃない「はたらく理由」は、家族のためとか子供のためとかいう「誰かのためにはたらく」というもの。バッサリ斬るけどそれって古い。その自己犠牲感がもう戦後でしかない。昔わたしが信じていた「働くのいうのは、ハタにいる人がラクになるためなんだよ」というのもそうだ。誰かのために前提は、その誰かから何らかの見返りを求めてしまう。少なくとも「ありがとう、あなたのおかげで」という感謝は無意識に求めることになるでしょ。そんなの当然でしょ?という態度取られたらもう逆上するしかないでしょう?立場を変えてみて欲しい。自分のために大事な人が苦労しているのを、あなたは嬉しいと思える?いや、わたしなら「今すぐやめて!」と言いたくなるな。誰かの苦しみの上に成り立つ幸せは、本当の幸せなんかじゃないと思う。

人それぞれに、得意分野はあるものだ。その、ちょっと人よりも秀でている得意分野を世の中に生かすことができて、それが「報酬」という対価で評価されて、受け取る。その「世の中」というのは「会社」でもいい。うちのきたちゃん(夫)の得意分野は「会社」の業務の中にある。会社の中で自分の得意分野を如何なく発揮して、そして評価されてその報酬を受け取っている。きたちゃん(夫)にとって、自分の得意分野を最高の形で発揮できるフィールドが「会社」の中にあると気付けたことから、毎日楽しく働けるようになった。その時から「仕事」は「志事」に変わったの。雇われて働いてても、そうなることは可能だ。きたちゃんは毎日、会社の中で「自己表現」を楽しんでいる。同じ会社に勤めているのに、イライラもピリピリもしなくなった。毎朝起こさなくても自分で起きて、さっさと支度して出かける。わたしも安心して寝坊できる(!)。違うそうじゃない。いやでもまぁ、いっか。

雇われて働いていない、つまり自営業のわたしには、さらにその「自分の在り方全て表現することを志事にする」ことが重要になるんですが、サラリーマンにとっても同じことです。ましてや、これからはそういう考え方を持つことがとても重要になってくると思われます。そうじゃないともう苦しくて追い込まれてもうどうしようもなくなるよ。いや脅しじゃなくて。だから、少しでも早く、自分自身の在り方そして表現の方法を知り、そしてそこから報酬としての対価を得る、この循環を創っておいて欲しいと切に願います。それは、どんな時もあなたがあなたらしく在る為に。そしていつも豊かさを得る為に。